見えていたはずの素晴らしい出来事

 

宮本穂曇 見えていたはずの素晴らしい出来事
4月4日(土) - 5月2日(土)
14:00 – 18:00 (初日のみ16時から)
木曜日 – 日曜日 (日曜作家在廊)
レセプション: 4月4日(土) 18:00 – 21:00

Hozumi Miyamoto
April 4 (Sat) − May 2 (Sat)
14:00 – 18:00
Thursday – Sunday
Reception: 4/4 (Sat) 18:00 – 21:00

-今井俊介(美術作家)
初めてまとめて作品を観たのは2013 年の秋ごろだったか。先行の画家たちの影響が強く見て取れたり、よくある日本的な絵画だなというのが最初の印象だった。けれど何故か強く惹かれるものがあったのも覚えている。本人が意識しているのかいないのかは分からないが、宮本穂曇の絵画は空間が垂直に立ち上がってくるように感じた。ものすごく薄く圧縮された不思議な空間がそこにはある。画面の全体がほとんど同じ筆致で描き込められ、描かれるモチーフとそこに付随する空間にはヒエラルキーなど存在せず、同等にそこに居座っていた。だからそこになにが描かれているのかを追っていくというよりも、リズミカルに筆致や色を追い続けることによって「いったい自分は何を見ているのかがわからなくなる」という混乱を楽しんでいた気がする。あれからずいぶんと時間が経ったが、今回の個展でどのような変化をしているのだろうか。

-栗原一成(美術家)
宮本さんの絵を見ていると、視線が画面上を彷徨いおよぎつづけます。そしてその視線は、限定された言語に転化することはないのです。それは、木の枝と葉が風にゆらゆらと揺れているのを見ながら風の厚みを肌で感じたり、木陰が揺れながら濃度を強めてまた弱めたりするのを飽きずに見つづけてしまう、そのような経験から生まれる感覚と似ています。しかし、それらの感覚は不確定であるが故に、美しくもあるのですが、同時に不安を煽る混沌でもあるのです。宮本さんの絵から察するに、宮本さんは不確定の世界に眼を向けている人だと思います。ならば必然的に美と両義に存在する混沌に入り込まなくてはならない。そのためには勇気と忍耐が必要です。宮本さんは覚悟をもってそれを受け入れているのではないでしょうか。

-千葉正也(画家)
友人のほずみちゃんの個展に併せまして、以下作文しました。大概のことはすぐに忘れるし、ほとんどの事に意味も価値も見いだすことは出来ないが、ある「不思議さ」(括弧から出そう)、不思議さが現実の色々な事の表面やすぐ後ろにぴったりくっついているのを見逃してはならない。と思う。なんでこの様な事になったのか、カナダに向かう飛行機の中でこの作文を書いている。理由は無いが少しでも早くカナダに着くためにおかしなスケジュールの立て方をしてまいとても疲れてしまっている。飛行機の小窓には日本特有の粘っこい水滴がついてる。旅は憂鬱だ。弱くなることが旅だと思う。もしも堅いものにぶつかった時にはすぐに粉々になってしまう、そんな風に弱くなりたい奴がいるだろうか?でも存外沢山いるようだ。以下創作した話。誠とチャックが商店街の蕎麦屋で呑んでいるというので俺も行ってみると、そこには顔見知りばかりだが、良い年してるくせに柄の悪い男が5人ばかし集まっていた。弘のお母さんの声まねで「お金がないんです」と言って笑っている。不良は語尾のイントネーションとか変な顔とかでしか笑わない。思えば中学生の頃はこういう感じで笑っていたなあ、懐かしいなあ。お調子者の小野ちゃんもおくれてスーツ姿で合流して今日は良いじゃないか、久しぶりに楽しいかもね、なんて話してた。。そのとき三角っぽい帽子の男が店に入ってきたのだった。三角っぽい帽子の男は長いドレッドヘアのアメリカ人だ! そいつはデカいリュックを背負って所謂バックパッカーだ。蕎麦屋に居た俺の友達は三角っぽい帽子の男に絡んで、茶化して、蹴って、仲直りして、お酒を飲んで、殴って、運んで、捨ててしまった。俺は怖くて絶交してしまった。それから一週間位たって俺はカナダのトロントにいる。(この部分は創作ではなく事実の話。日記みたいなものだ)ここのところずっと英語の勉強ばかりしていて、その為には、日本語を使うこと自体良くないらしく、もともとストイックな俺は、慣れ親しんだ言語を意識の隅へ隅へと追いやろうとしていた。 今日は何故そんな事になったのか解らないが、ルームシェアしているカナダ人の女性が郊外に水を汲みに行くというのでそれにつきあった。その道程でソーラーパネルと凍った水面を沢山観たので、それについての絵を描くための計画を立てていた。子供の頃は大人になったらきっと退屈で、フレッシュな体験をすることは少なくなるものだと思っていた。ルーティンワークを繰り返しているような生活をしている大人達を醜いと思っていたし、自分はそうなりたくないと思っていた。今は、全く、心の底から一ミリもそんな事は思わない。ガキが考えるその手のことは本当に糞だ。その時の自分に会って、もっと柔軟なものの考え方を教えたい。以下、創作した話。小学校の時、橋本君という友達が居て、そいつは祐輔という名前だった。ユウスケという名前の奴は同学年に他にも六人も居て、多いんだなと思っていた。俺が教室の良い席に座って厚紙にロックマンの絵を描いていると、橋本君が前のめりに転んで俺の机に頭をぶつけてしまったのだ。血が出たのだが、それが想像してたのと違って凄く濃いというか、どろどろとしていて、脳味噌がでたのかと思った。 次の日になったらケロっと学校に来ていた橋本君に傷を見せてくれとお願いしたら、包帯をずらして見せてくれたのだが、傷の周りに綺麗な金色の毛が生えていた。橋本君は誇らしげに「傷のまわりだけライオンになった」と言っていた。 この話のすごいのはここからで、その次の日、学校に行くとユウスケという名前の奴のうち5人が金髪になっていた!その中の一人の川上雄輔は俺とめちゃ仲が良かったのだが、彼に呼ばれてトイレに行くと彼は滅茶苦茶デカくなったチンポを俺に見せてきた。ただのでかいチンポではなく、まるでブランクーシみたくツルツルだった!友人達のライオン化は終わらない。終わるわけが無かった。髪が金髪っぽくなったり、黒目がライオンみたいに青っぽくなったりするのはどうでも良かったが、吉田雄介に牙が生えてきたときは、さすがに羨ましいと思った。本物のライオンに比べれば大した事はないけれど、牙が生えているとなんだか仕草がかっこよくなるのだ。ある日牙が生える、というか今生えている犬歯が大きくなる、という事は現実には起きないファンタジーだと思っている人が多いと思われる。だが現実はもっと違う。外国で売ってるノートにはなぜだか穴が空いているものが多い。針金で留める為に沢山空いている穴とは別に、その紙を一旦ぴりぴりとノートから外してからバインダーみたいな物にまとめる為に二つ穴が空いている。その紙が重なっているから一センチの厚さのノートなら一センチの深さの穴が空いている。そのノートにボールペンで絵を描くときにペンの先がその穴に落ちてしまうという事がある。その時の音にどんな擬音をあてるのか、「ドーン」なのか「ドカン」なのか「ゴチンコ」なのか。体重を乗せて描いている時などは、合気道のマスターに投げ飛ばされたように、天地が逆さまになってしまうような感覚がある。自分の用意したリズムをいきなり分断するようなその出来事は、「暴力的」というより「暴力をふるわれた時に似ている」と言った方がしっくりくる。そしてその穴に落下して再び顔を上げたときに思うんだが、俺はまだまだ全然集中してなかった、こんな事に、のめり込みすぎなくて良かったけど、あと一回ぐらいはもう少しのめり込んでも良いかもしれない。 最近は特に、おもしろいことに含まれた退屈さがあふれ出て、退屈なことに含まれたおもしろさがあふれ出ている様に感じる。俺の主観だけでなく、多くの人が共有する、これからの世界はそうやって細かく砕かれミックスされ、いよいよ均一にペースト状になって行く気がする。それは別の言葉で言えば最高という事だと思う。